郷土石見機関誌

<特 報> 島田俊雄のこと(その一)

─ 昭和初期「政党政治黄金時代」に活躍した石見出身の政治家 ─

飯 田 泰 三


島根県那賀郡浅利村(現江津市浅利町)出身の議会政治家、島田俊雄のことは今では知る人も少ない。
私は3年半前に島根県立大学に赴任してきたが、それを機に、島田俊雄のことを調べることを思い立った。
というのも、私の父(飯田憲一。明治38年、那賀郡都野津村〔現江津市都野津町〕生れ)が、若い時その世話になったことがあると聞いていたからである。父は都野津小学校、浜田中学を経て、昭和初年に早稲田大学商学部を卒業したのだが、たまたまその頃は、小津安二郎の映画「大学を出たけれど」(昭和4年)が流行ったような、ひどい就職難の時代だった。それを島田俊雄(当時、政友会幹事長)の口添えのおかげで、やっと父は鉄道省に就職できたらしいのである。先代以来都野津で呉服商を営んでいた祖父(飯田伊作[2代目]。昭和3~7年、都野津町長)が、かねてより島田俊雄の地元後援者の一人だったので、その関係で頼み込んだものだという。


昨年、ネットの「日本の古本屋」で、『明治百年 島根の百傑』(島根県教育委員会、昭和43年10月。以下、『島根の百傑』と略記)という本を入手した。その「島根の百傑」のうちに、「政治関係」の一人として、島田俊雄も選ばれていた(「百傑」の内訳は、「政治関係」17人、「産業経済関係」16人、「学術教育関係」29人、「文学芸術関係」29人、「宗教関係」9人である)。この本が出た1968年は、明治維新後百年にあたり、政府主催の「明治百年記念式典」が10月23日に日本武道館で催された年である。当時の島根県教育委員会は、そうした明治百年を記念する事業の一環にかこつけて、この『島根の百傑』を作った。これは全国でも例のない企画だったらしい。

ちなみに、この1968年は、一月に東大闘争、4月に日大闘争が始まり、その後数年にわたる全国的な学園紛争の嵐が巻き起こった年でもあった私はちょうど東大大学院法学政治学研究科の博士課程に進んだ年であった。秋学期が始まって間もなく、安田講堂前の広場で、東大全共闘や日大全共闘、また中核派や核マル派等の諸派、それに民青(民主青年同盟)や無党派学生も結集して大集会が開かれた。その旗竿の林立する光景は、いまだに筆舌に尽くしがたい想いとともに、昨日のことのように蘇える。
明治100年を迎えたこの年は、60年代の高度成長がピークに達するとともに、「戦後民主主義」に対してーーさらには日本の「近代」なるものの総体に対して、異議申し立てや疑義が提起され始めたときでもあった。

ともあれ、この『島根の百傑』の「島田俊雄」の項(執筆、沖島鎌三)、および、沖島鎌三を名目上の著者として刊行された『勤続表彰記念 島田俊雄先生』(以下では『島田俊雄先生』と略記)などを参考にして、島田俊雄の人物像を再現してみたい。


『島田俊雄先生』(再販、1968年3月)の元版は、昭和20年3月の刊行であった。前々年の昭和18年10月27日、衆議院は院議をもって島田の衆議院議員在職25年の功労を表彰した。それを記念して、60数名の議員や周辺の人たちが寄稿しての出版であったが、製本を終えてまさに頒布しようとしていた矢先に、東京大空襲のため、数部を残して全焼した。それから25年後の1968年、『島根の百傑』が刊行されることになり、そこに沖島が島田俊雄の項を執筆することになったのを機に、同書を「江津市役所 島田俊雄先生顕彰会」(会長は当時の江津市長、岡田信正)が再版したのであった。なお、沖島鎌三(明治18年(1885)―昭和50年(1975))は、那賀郡川登村(現江津市松川町字市村)の出身で、島田の母の実家と同村であり、島田の父が早世して母が実家に戻って再縁していたとき、島田の弟宣定と沖島は幼友達になり、同家に出入りしていたことがあった。ページナビへ戻る

[`evernote` not found]

コメントをお寄せください

ピックアップコンテンツ

破線

新着トッピックス 石見の銀山 郷土石見 銀の道ウオーク いわまが

破線


▲このページのTOPへ