石見のなかの銀山

「石見の銀山」のなかの 『久喜・大林銀山』

吉川  正

注目されつつある久喜・大林銀山



 邑南町出羽から県道「邑南吉田線」を吉田方面に進んでいくと、右手の志都岩屋神社の大鳥居を過ぎたあたりから、県道の両側に手作りの小さな案内板が目につくようになる。車のスピードを落としてよく見ると「岩屋間歩群」「赤子淵」「床屋千軒」「床屋製錬遺跡」などと書かれている。これは地元の有志で組織された『銀山保全委員会』により建てられた『久喜・大林銀山』の案内標識である。



より大きな地図で 石見の銀山マップ を表示

 私はかなり以前からこの地域の歴史を学んできていたが、実はこの久喜・大林の鉱山遺跡には余り興味を持っていなかったのである。ところがちょうど30年ほど前、当時日本鉱山史学会の会長であった葉賀七三男先生(故人)と知りあうことができ、ここが銀山であり、

江戸時代には石見の銀山の一翼を担った主要な銀山であることなどを教えられた。それ以来ここが銀山遺跡であることを各方面に訴えてきたがなかなか取り上げられることがなかった。

ところが 、平成19年7月『石見銀山とその歴史的景観』が世界遺産に登録されると、その関連遺跡としてにわかに注目されることとなったのである。こうした流れの中で『銀山保全委員会』が結成され、遺跡の顕彰・整備が行われている。前述した手作りの案内板の設置もその活動の一つである。 世界遺産『石見銀山』関連遺跡として注目されつつある『久喜・大林銀山』について隠れた観光スポットとして紹介してみたい。

 

久喜・大林銀山の概要



久喜・大林銀山は岩屋・久喜・大林にまたがる東西3キロ南北2キロの中にあり、全体の面積は石見銀山(大森)よりも少し広いように思われる。学術的な調査が始まったばかりで詳細は不明な点も多いが、現在の時点で約900ヶ所の採掘跡が確認されているほか、製錬関係遺跡も何ヵ所か確認されつつある。

久喜・大林銀山と大森銀山の大きな違いの一つはその地形である。大森銀山は山肌が急峻で岩盤が露出しているが、久喜・大林では山は低くなだらかで土に覆われている。そのため久喜・大林では採掘跡の入り口部は埋没しているものが大半で、内部の状態を確認できるものは全体の1割程度である。全体的には中小の露頭掘の痕跡とその付近に掘られた樋追い掘跡が圧倒的に多いのが特徴といえよう。場所によっては数メートルおきに掘られていることもある。江戸時代になって採用されたといわれる坑道掘(横合)は採掘跡全体の1割に満たないものと考えている。

この地域での銀鉱脈の発見は平安時代末との伝承もあるが、弘治2年(1556)

天正年間の国絵図に描かれた久喜銀山

の志道廣良(毛利家重臣)書状などから、本格的な開発は十六世紀の中頃毛利元就により始められたものと考えている。

銀山の経営に深く関わったとされる「大志茂家」の文書には永禄3年(1560)温泉蒼(岩屋地内)で鉱脈が発見され大いに賑わったとされているが、この周辺には大規模な露頭掘跡や樋追い掘跡が集中しており、この周辺から銀山の開発が始められたと考えられる。また、元亀元年(1570)には大横谷(久喜地内)で大鉱脈が発見され以前に倍して賑わったと伝えられており、これを契機に採掘の中心は次第に久喜・大林に移り、岩屋地内での採掘は縮小されていったと考えられる。
その後、天正年間には久喜・大林を含む石見の銀山は毛利輝元と豊臣秀吉の共同経営となり、関ヶ原の戦い(1600)の後は徳川家の直轄地(天領)として明治まで大森代官所の支配をうけていた。
久喜・大林銀山の最盛期は戦国時代末~江戸時代初めの頃で、当時この地域には数千人の人が住んでいたと考えられるが、湧水のため次第に採掘が困難となり、17世紀の後半にはほとんど採掘が行われなくなり急激に衰退していった。その後代官所による再開発も進められたが思ったような成果は上がらなかったようである。

明治20年代には「山陰の鉱山王」と呼ばれた堀氏により近代技術を駆使した大規模な開発が進められ、明治38年には2,3トンという大森銀山を凌ぐ銀を産出したが、明治40年の水害により大きな被害を受け、翌年には従業員を宝満山(東出雲町)に移し閉山となった。
その後、昭和26年「久喜鉱業所」により再開発が試みられたが、折からの金属価格の暴落により30年に中止され現在に至っている。


 

久喜・大林銀山の見所



久喜・大林銀山遺跡には多くの見所があります。路傍に車を止め案内板に従ってほんの少し歩いていただくだけで多くの場所で露頭掘跡や樋追い掘跡を見ることができ、坑道の見学もすることができます。(事前の許可が必要) 坑道は観光化されていないので、真っ暗な闇の中を懐中電灯の光を頼りに手探りで歩くのはまさに探検であって、感動すること間違いなしです。そこでは、古い時代の樋追い跡・採掘のための横坑、鉱石を搬出するための縦坑や斜鉱、上の坑道に上り下りするための梯子や雁木なども見ることができ、当時の採掘の様子を体で感じ取ることができます。
また、戦国末期のものと思われる製錬遺構や、江戸時代の製錬所跡・明治期の大規模な製錬所跡など、時代ごとに異なる製錬遺跡も見ることができます。初めて久喜製錬所跡を訪れた人は、100年たっても草も木も生えていない大量のカラミ(鉱滓)にきっと驚かれることでしょう。
こうした久喜・大林銀山の見所について紹介したいと思います。春は桜・秋は紅葉と四季それぞれの楽しみもあります。

 

久喜エリア



久喜地域では元亀元年(1570)大横谷で大鉱脈が発見され、その後この一帯で盛んに採掘が行われたと伝えられています。古い時代の露頭掘跡や樋追い掘跡が多数分布しているほか、大規模な坑道も多数見ることができます。
また『上千軒』『床屋千軒』という地名が残されているほか、高善寺(現鱒淵)西福寺(現原村)正蓮寺(現江津市)など多くの寺院跡も分布しており、銀山の最盛期には多くの人で賑わっていたことをうかがい知ることができます。
百石には江戸時代は銀山を管理する役所が置かれ、「口止め番所」「高札場」や銀山に必要な物資を商う商店や旅籠などもあり町場を形成していました。

明治期には堀家により最新の技術で再開発が行われ多くの銀や鉛が産出されました。その当時の坑道や大規模な製錬所跡と煙道・発電所跡などの遺構、大量の鉱滓を捨てた「カラミ源」などにより当時の繁栄ぶりをしのぶことができます。



久喜エリアでの見学コース約90分~2時間 



大横谷間歩・・・・・上千軒・・・・・・神宮寺・・・・・久喜製錬所跡・・・・・水抜き間歩・・・・・・・百石・・・・・林間学舎
(銀山資料室)

大横谷間歩坑内

大横谷間歩坑内
久喜製錬所跡

久喜製錬所跡

錬所跡カラミ原

錬所跡カラミ原

久喜製錬所煙道

久喜製錬所煙道

無縁仏紅葉

無縁仏紅葉 

水抜き間歩坑口

水抜き間歩坑口

百石と松尾城跡

百石と松尾城跡

 

大林エリア



古文書からこの大林地区でも戦国時代の末期(元亀年間)にはすでに採掘が始められていたことが知られています。数多くの露頭掘跡や樋追い掘跡が分布しているほか、大規模な坑道も分布しています。
江戸時代初めの検地帳によるとこの大林には176軒の屋敷があり、「髪結い」「湯屋」などのほか「煙草屋」もあったと記されており当時の繁栄ぶりをしのぶことができます。
山の内製錬遺跡は、それまで各地で製錬を行っていた吹屋を江戸時代初期にここに集めた場所ですが、広い範囲に多量のカラミが堆積しており、この大林でもたくさんの銀や鉛の採掘が行われたことを示しています。
銀の製錬には多量の鉛が必要ですが、久喜・大林では多量の鉛も産出することから、この鉛が大森銀山に運ばれ、大森銀山での銀の製錬を支えていた可能性も指摘されています。 

 

大林エリアでの見学コース約90分



長戸路間歩群・・・・・道小間歩・・・・・山の内製錬所跡・銀吹山品龍寺・・・・・・山神社・・・・・・・正田間歩群

山の内製錬所跡

山の内製錬所跡

大林山神社大林山神社

大林山神社

道小間歩とその坑内道小間歩とその坑内

道小間歩とその坑内 

露頭掘と樋追い掘跡

露頭掘と樋追い掘跡

          

岩屋エリア



岩屋地内にも大規模な露頭掘跡や樋追い掘跡などの古い差し靴跡が多数分布しています。特に温泉蒼から要九朗峠の一帯と東谷には多数集中しており、このあたりから銀山の開発が始められたと考えられています。しかし江戸時代にはこの岩屋村は天領とされていないことから、戦国時代末にはここでの採掘は終えていたものと考えられますが、江戸時代中頃の一時期には細々と採掘されたこともあったようです。
その後、昭和20年代後半にも再開発が試みられました。このときの複線のトロッコ線路の残る坑道や発動機・コンプレッサー・鉱石積み場などが残されています。

 



岩屋エリアでの見学コース 約40分



岩屋間歩群・・・・・鉱石積み場・・・・・温泉蒼露頭掘跡・・・・・赤子淵・・・・・・床屋千軒・・・・・床屋製錬遺構

岩屋間歩

 岩屋間歩 

岩屋間歩に残された発動機

 岩屋間歩に残された発動機 

温泉蒼露頭掘跡

温泉蒼露頭掘跡

床屋千軒と吹屋群跡

 床屋千軒と吹屋群跡

神宮寺の野仏と紅葉

 神宮寺の野仏と紅葉

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